第一章 (2)
キラキラとした眩しさの先にある青い空を感じてぼんやりとしている時、短く淡い恋の記憶が脳をかすめた。甘酸っぱい想いが胸いっぱいに拡がってきた時、心の奥がチクリと小さく痛んだ。痛みの正体はきっと失恋の痛みなのだろう。恋は忘れても痛みは残るのだろうか。
脳をかすめた短い恋の記憶がこれ以上大きくならないように、私は深くため息を吐いた後大きく息を吸い込んで深呼吸してみる。
ねえ、聞いてくれる?ママのちょっと不器用で遠回りの大人の恋の話。あ、その前にあなたのパパと初めて出会ったときの話。そしてもう一度出会った時の話。これはこれでとてもロマンチックなの。
まだ言葉も理解できない赤ちゃんの萌花になら、私の恥ずかしい話も素直に話せる気がする。
頬にあたるそよ風が夏の匂いに変わり、都会の小さな森にあるベンチには木洩れ日が輝いている。その様子を見ながら、智と出会った頃から今日までの小さな私の歴史を振り返ってみた。
智と初めて出会った場所は映画館で、季節はちょうど今頃だった。あれから九年になる。彼に初めて出会った時は、まさか結婚することになるなんて思いもしなかった。
たまたま同じ空間で一緒の時間を過ごした後は出会った事実もお互いの存在も忘れて、またいつもの毎日がそれぞれの人生の中に続いていくと思っていた。結婚して離婚してまた結婚するなんてこと、よくあることなのか珍しい事なのか私にはわからない。その出会いが良かったのか悪かったのか、その時の判断が正しかったのか間違っていたのか、きっと人生最後の日になるまでわからない事なのだろう。
時計を見ると、映画の終了時間まであと三十分だった。目が覚めて不快感と空腹で体をよじっている萌花のお腹に手を当てて落ち着かせてから、手早くおむつを替える。少し機嫌がよくなったようだ。抱き上げて授乳をしながら萌花に話しかけた。
「お腹がいっぱいになったら、お父さんとお兄ちゃんを迎えに行こうね」
授乳が終わった後、萌花をぎゅっと抱きしめマシュマロのような頬にそっとキスをする。お腹が満たされ、お尻の不快感も無くなり天使の笑顔をみせてくれている萌花をベビーカーに戻し、背もたれを少し起こした。私たちはゆっくりと映画館があるショッピングモールの方へ向かった。
公園からショッピングモールまでは一本の広い道でつながっていて、ゆっくり歩いても十分とかからない程度の距離だ。一番上の階にある映画館の前に着いた時、ちょうど映画が終わったようで映画館のフロアはたくさんの人でにぎわっていた。
これからチケットを買って映画を観る人や出てくる人の邪魔にならないように、入り口から少し離れた場所にある近日上演の映画を知らせるパネルのあたりで、智と勇希を待っていた。萌花はまだ言葉にならない声を時々発しながらご機嫌の様子で手足を活発に動かしている。
何気なく映画予告のパネルの一つに目をやり、そこに書かれた文字を読んでみた。
「伝えられない想い。伝えなかった想い。十年の時を経て重なった二人の時間」か。
少し悲しそうな表情の男女の写真の上にそっと置かれた文字から恋愛映画の広告だということが分かる。恋する相手に「好きだ」という気持ちを伝えることが出来ないでいる間に運命のいたずらで会えなくなってしまい、恋が終わるという切ないラブストーリーのようだった。
気持ちを伝えることが出来ずに会えなくなって恋が終わってしまうことは、きっとよくある話だ。私にだって経験があるのだから。
好きな人ができると胸の奥にぼんやりと小さな暖かい灯が現れる。恋の始まりはほのかな暖かさを胸に抱いているだけで満足するのだが、次第に抑えきれない熱い想いになっていく。熱さに耐え切れなくなり自分の気持ちを伝えずにはいられなくなる。
けれど、それを阻む事実を知ることになったりあきらめざるを得ない出来事が起こったりするのだ。そんなことを考えていると、先ほどよりも強く短い恋の記憶が呼び起こされた。
私の場合は、気持ちと伝える言葉が口から漏れ出そうになる一歩手前で、相手から言葉を遮られたのだ。
(つづく)
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